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「哲学者」オシム氏の本を読みました。

オシムさんは「哲学者」と呼ばれるだけあって言うことや書くことが抽象的なことが多く、この本も例外ではありません。昔流行った「ニーチェの言葉」という本がありますが、似たような雰囲気ですね。これらの本はどの言葉が自分に刺さるのかは、その時の置かれている状況によって変化するので、長い時間を掛けてその都度読み返すのが良いのでしょう。

しかし具体的に言及している箇所もあります。例えばチームの監督がサッカー経験が必要か?という問題に対し以下の事を述べています。

監督は彼らを批判することもできるし、怒鳴りつけることもできる。好きなことができるが、すべては彼らの「最大限を引き出す」ため、ということだ。怒鳴りつけて批判ばかりしていてはプレーも悪くなるばかりで、選手もそういう状況には耐えられない。
日常生活においても、批判に耐えられない人間はたくさんいる。そんな人々に対しては、十分に注意深くならねばならない。それこそ心理学であり、監督は人間心理の専門家であるべきなのだ。
十分な時間をかけて、選手を理解しようと努める。心理的・精神的に、彼らがどうであるのかを。
選手は監督がそれだけ自分を気にかけていると思えば、自分に自信を持てる。自信を得れば、プレーも良くなっていく。逆に嫌われていると不安を抱き始めると、その後が難しくなる。監督に嫌われていると感じた選手は、同じように嫌われている選手を求めるからだ。それは監督に敵対するグループが生まれたことを意味する。これはちょっとした問題だ。
どんな仕事においても、集団をうまく機能させるためには、正しい方向へと導けるリーダーが必要だし、能力のある人間、監督が必要だ。そしてその監督に、「選手」の経験があるかどうかはまったく問題にならない。

そう、現代のサッカーの指導には(サッカーだけではないでしょうが)、指導者には心理学の知識が求められています。怒るにしても誉めるにしても、相手とタイミングと使用する単語、言い回し、強弱を考えながら伝える必要があります。また子供たちとの何気ない接し方も注意しなくてはいけません。オシムさんが言っているように監督やコーチに嫌われている、避けれていると感じた子は、大人であればグループ化して対立するでしょうが、子供の場合は気持ちが傷つきます。

子供を指導する場合はデモンストレーションを見せることがありますので、選手経験はあった方が良いでしょう。しかし言ってしまえば必要な技術はその程度あればよく、それよりも指導方法を学び都度試行錯誤する姿勢が求められます。

子供の試合でたまに聞く声として

「なんでそんなことが出来ないんだ!」

と指導者が怒鳴っている光景を見ることがありますが、その度に「あなたが教えてないからでしょう」と心の中で呟きます。

試合中に子供たちの気持ちを奮い立たせるため厳しい言葉で怒鳴るのは理解できますが、技術不足を怒鳴ったところで何も進展がありません。このような指導者はおそらく足りない技術を教える指導力を持ち合わせていないので怒鳴ることしかできないのでしょうね。

現在の私は半分指導者で半分はクラブの経営者です。チームは違えど指導者の仲間を批判したくはないですが、上記のような昭和時代の指導者はまだまだ存在します。この時期、来年度の大会にむけての準備が始まり、色々と考えてしまうことがありますが、来年度はグランドで怒鳴り散らす指導者を見なくなることを願います。

なおオシムさんは指導者に必要なことを以下のように述べています。

監督として必要な資質とは何か。
例えば、プロ選手としてのキャリアはそれに当たるだろうか。
思うにサッカーの監督は、必ずしも元プロ選手である必要はない。プロとしての経験がなくとも、サッカーの監督にはなれる。必要なのは知性であるからだ。
知性があることで優れたキャリアをまっとうできた監督はたくさんいる。彼らはサッカーで何かを成し遂げる機会を得た。サッカーは走るだけではないし、遠くにボールを蹴ることでもない。
他の多くのこと——人生の哲学が内側に含まれている。

 

投稿者 松尾